『SALUT』
Rien, cette écume, vierge vers
À ne désigner que la coupe;
Telle loin se noie une troupe
De sirènes mainte à l'envers.
Nous naviguons, ô mes divers
Amis, moi déjà sur la poupe
Vous l'avant fastueux qui coupe
Le flot de foudres et d'hivers;
Une ivresse belle m'engage
Sans craindre même son tangage
De porter debout ce salut
Solitude, récif, étoile
À n'importe ce qui valut
Le blanc souci de notre toile.
―Stéphane Mallarmé―
--.--
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Posted by 三浦ユキ YukiMiura
16.2012
『バレエ・牧神の午後』 ニジンスキーの羽衣・マラルメの渇望

写真:ヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)、バレエ『牧神の午後』の一場面
穏やかな午後の森の中。
葡萄を食べたり、笛を吹いたりしながら、ひとりの牧神が岩の上でのんびりと寝ころんでいます。
すると、目の前の小川にニンフたちが水浴に訪れます。
そばに牧神がいることを知らずに、ニンフたちはヴェールを脱ぎ始めますが、こっそりと近づき誘惑しようとする牧神に気づくと、慌てて逃げ出します。
逃げ遅れたひとりのニンフ。
求愛する牧神。
恥ずかしがって逃れようとするニンフとの、絡み合い、もつれあうようなパ・ド・ドゥ。
結局ニンフは逃れ去り、彼女のヴェールだけが残されます。
ヴェールを拾う牧神。
元の岩場に戻ると、そのヴェールの上に覆いかぶさり、自らエクスタシーを迎えます。
以上がバレエ『牧神の午後』の内容(ストーリー)です。

ウィリアム・ブークロー『ニンフ』 1878年
1912年5月25日、パリ・シャトレ座。
山羊の角と、牛を思わせる斑模様の肌着で、異様なまでに「牧神」と同化したニジンスキー。
この日、彼が踊ったバレエ演目『牧神の午後』は、大きなスキャンダルとなりました。
身体は正面のまま顔は横向き、そして移動は左右のみという2D格闘ゲームのような二次元性をもった振り付け。
この独特の振り付けの着想は、古代ギリシャの壺絵ともエジプトの壁画とも言われていますが、従来のバレエとはまったく異質です。
しかもバレエにとって不可欠な「跳躍」が、一度きりの小さなパ(ステップ)以外は排除されているのです。
極めつけは自慰行為を思わせるラストシーン。
性的なテーマがこれほど露骨に表現されることは前代未聞のこと。
観衆はどう理解すればいいのか分からず、終演後にもかかわらず静まり返ってしまったようです。
やがてブーイングが巻き起こり、貴婦人が席を立つ中、若い芸術家集団は拍手喝采を送ります。
幕が下りたあとも賛否両論渦巻き、この騒然たる様は翌日の新聞に大々的に取り上げられました。
「これが芸術か、好色な野獣を見せるスキャンダラスな舞台か」
ル・フィガロ紙上で編集長のガストン・カルメットが批判記事を書けば、ル・マタン紙はロダンによる古代のフレスコ画や彫刻の美に例えた称賛の言葉を載せます。
曰く「美と霊感を求めた結果である」と。
こうして『牧神の午後』が与えた衝撃は、パリから世界へと駆け巡ります。

左:古代ギリシア壺 中央:エジプトの壁画 右:オーギュスト・ロダン作『ニジンスキー』
現在ではモダンダンスの祖と見なされ、バレエにおける最重要演目の一つとされる『牧神の午後』。
この血脈は、1882年にステファヌ・マラルメによって綴られた詩編『半獣神の午後』に端を発します。
マラルメのことですから、もちろんこの詩も象徴によって記されています。
牧神を言葉の世界でまどろむ詩人(マラルメ自身)に託し、小川に訪れたニンフを詩魂(ポエジー)、もしくはイデアの象徴として描いているのです。
ニンフ(詩魂)を捕らえ、我が物にようとする牧神(詩人)。
「あの水精(ニンフ)らは永遠に生かしておきたい」という序文から、すでにポエジーを言語化・永遠化しようとする意志が表されています。
しかし、それもつかの間。
欲望を達成しようとした瞬間、ニンフは逃げ去り、牧神は達せざる情欲に喘ぎながら、ニンフの影を追い求めるところで詩編は閉じられます。
「いやしかし言葉の空(うつろ)な魂とこの重い体は
ついに真昼の犯しがたい静寂に屈服する。
それきり神を罵る言葉も忘れ眠るだけだ
飢えた砂地によこたわり、なんと俺はご利益の
酒の明星へ口を開けるのが好きなんだろう!
番(つがい)のニンフよ、さようなら、君たちの影法師を見に行こう」
マラルメの詩に強烈なインスピレーションを受けた作曲家のドビュッシーは、管弦楽『牧神の午後への前奏曲』を作ります。(ドビュッシーは印象派というイメージが強いようですが、作風は完全に象徴主義のそれです)
この管弦楽を基盤にして、ニジンスキーは『牧神の午後』を振り付けます。
マラルメは自作『半獣神の午後』に関して、舞台での再現を望んでいました。
晦渋をもって知られている詩編ですから、並大抵の才能では舞台化は不可能。
その想いは四半世紀を経て、ニジンスキーという天才の手でようやく叶えられることになったのです。
『牧神の午後』が後の世に与えた影響については前述の通りです。
ニジンスキーのエキゾチックかつ野性的な肉体と、レオン・バクストのデザインした衣装が完璧に融和し、牧神の姿はニジンスキーの印(しるし)となります。

レオン・バクスト『牧神の午後:衣装デザイン』
ニジンスキーは1890年、ポーランド人の両親の元、ウクライナで誕生しました。
10歳でマリインスキー劇場付属舞踊学校に入学、18歳で同劇場の主役に抜擢されます。
翌年19歳、、マリインスキー劇場を辞めたニジンスキーは、アンナ・パヴロワと共に、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに所属。
バレエ・リュスの最初のパリ公演で、ついに伝説が幕をあけます。
飛んだまま降りて来ないと言われた跳躍、役が取り憑いたかのような異様な演技力。
その日、誰もが本当の天才を目の当たりにしたのです。
主役を喰ったニジンスキーは、一夜にしてスターダムにのし上がりました。

ニジンスキーの跳躍の瞬間を捉えた写真
バレエ・リュスについて少し述べると、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、サティが音楽を、マティス、ピカソ、ミロが美術を、コクトー、ホフマンスタールが台本を、ココ・シャネル、バクストが衣裳を、そしてパヴロワとニジンスキーが踊る、そんなバレエ団です。
所属時期は重なっていないアーティストもいるとはいえ、やはり奇跡のバレエ団の
蜃気楼のように生まれ、消えていった「バレエ・リュス」というバレリーナの神殿(パンテオン)、その最上段で踊ったニジンスキー。
彼のあまりに鋭敏な感受性は、徐々に精神を蝕みます。
1919年には統合失調症により入院、以後30年にわたって狂気の淵に沈みこみ、1950年に病院内で亡くなるまで二度と踊ることはありませんでした。
この入院中に書かれた手記の中で、ニジンスキーは次のように述べています。
「私はシェイクスピアの道化たちが好きだ。彼らはユーモアたっぷりだが、時々怒るから、彼らは神じゃない。私は神の道化だから、冗談が好きだ。
私は言いたい、愛のあるところが道化の本来の場所だ。愛のない道化は神ではない。神は道化である。私は神である。私たちは神である。あなたがたは神である。
私は神と言いたい。
神は神であり、神は神である」

1939年、セルジュ・リファールが訪ねた際、一度だけ高く跳躍したと伝えられる。その時の写真。
上記の手記からニジンスキーは「神の道化」と呼ばれるようになります。
あらゆる感情はメビウスの輪の構造をもっています。
悲しみの果て(裏)には笑いがあり。
笑いの果て(裏)には悲しみがある。
シェイクスピア悲劇の頂点に登場する道化、能楽に含まれる狂言などもこれを示しているように思えます。
賢者と愚者の両方にまたがる道化。
地上と天上にまたがったニジンスキーが自らを神の道化と称することに、何の不思議もありません。
残念ながらニジンスキーの動画は残されていません。(どこかに現存しているとは言われていますが)
今我々が目にすることができるのは、幾枚かの写真と、当時観劇した人物による文章、そして『ニジンスキーの手記』と、彼が記した舞踊譜のみです。
ニジンスキー直筆の舞踊譜で残っているものは『牧神の午後』ただ一つ。
それも独特の手法で記譜されていたので、1980年代に入ってようやく解読が完了しました。
これによりほとんど完全な状態で再現できるようになったのです。
『牧神の午後』は、わずか10分ほどのバレエです。
もはやニジンスキーの踊りを見ることはできませんが、舞踊譜という彼が織り上げた羽衣(ヴェール)が残されています。
美に耽ろうではありませんか。
ニンフのヴェールに戯れる牧神のように。
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アンナ・パブロワ 『瀕死の白鳥』
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『暗黒舞踏:言語化を拒否する身体』 大野一雄・折口信夫
『プラトンの美学』イデアとは何か 前編
『日本と西洋の肉体表象』ヌードが生まれた理由
11.2012
Sigur Rós(シガーロス)がニューアルバム『Valtari(ヴァルタリ)』をリリース、新曲『Ekki múkk』も収録

アイスランドのロック・バンド、Sigur Rós(シガー・ロス)の新アルバム『Valtari(ヴァルタリ)』が5月29日にリリースされます。
オリジナル・アルバムとしては前作『Med Sud I Eyrum Vid Spilum Endalaust(残響)』から約4年ぶり。
待望の新譜です。
天上の音楽などという大仰な言葉はあまり使用したくありませんが、Sigur Rósの場合はそれ以外に形容のしようがありません。
CDを再生して流れてくるのは、音というよりも、一つの空気、一つの世界。
その世界では、吐息も、衣擦れも、足音さえも完全な音楽として調和し、それが空間を変容させます。
音響芸術から空間芸術への転生。
ケルト文化の持つ汎神論的世界が、時代を越えて蘇るのです

Musicの語源であるMuse(ミューズ)は9柱の女神です。
Sigur Rósの1stアルバムの表紙に「天使の胎児」が描かれているのは偶然ではありません。
魂を癒し、慰め、鼓舞する。
それは地上にもたらされた天からの恩寵なのです。
ニューアルバムに含まれる新曲『Ekki múkk』のOfficial videoが届いています。
できれば独りのときに、室内を消灯し、環境が許す限りの高いボリュームで。
耳を澄ませてください。
音楽ではなく、あなたの心の奥に。
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05.2012
『現代アーティスト・村上隆(Takashi Murakami)』 日本の美の翻訳者

現代アーティスト・村上隆(Takashi Murakami 1962~)
村上隆とは何者なのか?
何を成したのか?
国内における批判と中傷は正しいのか?
日本人として我々はどのように氏を評価するべきなのか?
今回はこのような疑問に対して答えていきたいと思います。
まずは以前の記事から、もう一度現代アートについておさらいしておきます。
・アートは外国語のようなものであり、その外国語で書かれた小説の最新ページが「現代アート」です。
英語を知らない人は、そもそも英語で書かれた小説を読むことができず、また英語が読めたとしても、小説を最初から読んでいなければ、最新ページに書かれている内容を理解することは出来ません。
前提として氏は現代アートの最新ページに書き加えられている人物とします。
この評価は、おそらく今後も変わらないでしょう。
簡単に言っていしまえば、アートの文脈にその名を刻んだのです。
では、何をもってその名を刻んだのか。
答えは「日本の美」です。
氏は日本の美を独自に編集し、それを外国語+現代語として翻訳し、世界に紹介したのです。
次の作品を見てみましょう。

左:村上隆≪My Lonesome Cowboy≫1997 右:村上隆≪Hiropon≫1997
国内外ともに氏の名を一躍有名にした作品です。
片やペニスから大量の精液を撒き散らす裸の青年。
片や自らの母乳で縄跳びをしている裸の女。
≪My Lonesome Cowboy≫にいたっては、サザビーズで約1500万ドルで落札され、ニュースでも大きく取り上げられました。
キッチュでポップな、オタクカルチャーをベースにした等身大フィギュアです
造形的にすぐれているとは決して言えません。
それがなぜこうも高い評価を得ているのか。
意味が分からないのは当然です。
それは「外国語」で書かれているからです。
氏はすぐれた「翻訳者」なのです。

村上隆≪Ovale Buddha≫2007-2010
一番多い批判としては「オタク文化・日本文化のいいとこどり」ですが、これはまったくその通りだと思います。
たしかにオタク文化・日本文化の表象を用いた作品が大半を占めています。
言ってしまえばパクリです。
誰でもできることです。
にもかかわらず、なぜ誰も村上氏を追い越せないのでしょうか。
なぜ氏だけが日本人として世界のトップ・アーティストと肩を並べられるのでしょうか。
理由は簡単。
文化を翻訳するということ自体、並大抵のことではないからです。
西洋のアートの文脈に、日本人という部外者が己のページを書き入れることは、非常に困難なことなのです。
作品だけ造っても、誰も見てくれません。
広義の意味での「営業力」が不可欠です。
これはピカソにしろアンディ・ウォーホルにしろ同じことが言えます。
彼らは類まれな営業力をもっていました。
見落としてしまいがちですが、大事なのは作品のクオリティだけではありません。
現代アートに限れば、作品そのものよりも「営業力」の方が重要になる場合が多々あります。
西洋の文脈に従えば、アートは「知的な遊戯」でもあるのです。
詳しくは後述しますが、村上氏の場合、「営業力」をもった人物が「日本文化のいいとこどり」をして発表しただけでなく、作品自体の完成度も非常に高いと思っています。

村上隆≪cosmos≫1998
町山智浩氏の批判の全文はこちらから見ることができますが、はっきり言ってまったく的外れです。
この中で「毛唐をダマすための搾取」と言っていますが、西洋人ナメすぎです。
彼らはバカではありません。
最も理知的な人種です。
アートの文脈を築いたのも彼らであり、哲学を整備したのも彼らです。
ダマそうとしてダマせるものではありません。
むしろダマしたことすらも文脈に呑みこむような盤石の基盤をもっています。
部外者である日本人がトコトコと行って簡単に利用できるほど甘くないのです。
まあ「毛唐」などという差別用語を使用している時点で、お里が知れていますが。
さらにもうひとつ「アートとしてプロデュースしてやればいいじゃねえか。それで彼らが尊敬されて、お金持ちになるようにしてやればいいじゃねえか。本当にアートだと思って評価しているのならな。そうしないのは、単に利用してるだけだろ?」とありますが、村上氏がどれほど多くのアーティストをプロデュースし、その活躍の場を構築しているのか知っているのでしょうか。
ロッカクアヤコ氏をはじめ、数々の若手アーティストを発掘した「GEISAI」も、実は開催するたびに赤字なのです。
何もせずに批判する人よりも、行動する人間を信じます。
一文一文すべてに反論したい欲求にかられますが、あまりに長くなってしまうので割愛します。

村上隆≪Tongari-kun≫2003-2004
アートの現場は、作品を造るだけでも莫大な費用がかかります。
ダミアン・ハーストのプラチナとダイヤの頭蓋骨がいい例ですが、唯一無二のものを制作しようとすれば、途方もない額を捻出しなければなりません。
そのため氏のように巨大かつ豪奢な作品を完成させることができる人はごく少数に限られます。
真似しようにも真似できない。
身体が大きい人が、ただ大きいというだけで一つの個性を獲得するように、どんな巨大なものでも、どんな豪奢なものでも、自分の想い描いたビジョン通りに作品を制作できる時点で、氏のオリジナリティは確立しているのです。
≪My Lonesome Cowboy≫について言及した時「造形的にすぐれているとは言えない」と述べましたが、クオリティ面についても時代を追うごとに良くなっているように思えます。
そもそも1990年代では、まだ「等身大のフィギュア」自体存在していませんでした。
あまり知られていませんが、「等身大フィギュア」を最初に考案したのは村上隆氏です。
90年代当時、造形技術や予算的にも課題があったことは想像に難くありません。
それを証明するかのように、「立体」ではなく「描画」であれば、同時代の作品でも非常にクオリティが高いことが分ります。
次の作品をご覧ください。

村上隆≪727≫1996
氏の名声を不動のものにした要因として、LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)とのコラボレーションは見落とせません。
ブランド側にとっては、プロのデザイナーではない相手と組むことによってブランド力を低下させるリスクがあり、アーティスト側にとっては、売れ行きによっては自身の評価を下げるリスクがあるため、この二者間の交流は極めて限定的なものでしたが、その壁を村上氏は打ち破ります。
ルイ・ヴィトンのムラカミ・モノグラムが世界的に大ヒットしたことは、その後のラグジュアリー・ブランドと現代アーティストとのコラボ企画を飛躍的に増す契機となりました。
先ほど「作品そのものの完成度も高い」と述べましたが、それを証明する一番の作品は、ムラカミ・モノグラムだと思っています。
伝統あるルイ・ヴィトンのモノグラムを尊重しつつ、自身のアート・モチーフを盛り込み、それでいて見事な調和を見せています。
従来のデザインをちょうど一歩抜け出している。
これが行き過ぎてしまうと、ブランド・イメージを壊してしまいますし、逆におとなしい場合、わざわざ現代アーティストと組む意味がありません。
ムラカミ・モノグラムは、伝統と革新のバランスが絶妙なのです。
高度なデザインセンスを有していることがはっきりと分かります。
ただの「日本文化のいいとこどり」をした人物ではないのです。

村上隆≪eye love superflat≫2003
「翻訳」は、それだけで一つの芸術です。
こと文学に限っても、翻訳には双方の言語を自在に操るスキルに加えて、審美眼と詩魂(ポエジー)、さらに文学のリテラシーが求められます。
堀口大學、齋藤磯雄らを挙げるまでもなく、翻訳者として名を成している人物は上記の要素を満たしています。
アートにおける翻訳は、これに様々な要因が絡まってきます。
その手腕は絶対に評価されるべきです。
ウォーホルが評価されるのと同じように。
マリリン・モンローが利用された! ミック・ジャガーが利用された! 自国の文化が利用された! などとわめいてウォーホルを糾弾するのは愚かな事です。
現代アートに限れば、村上氏以前に、日本文化を編集し、それを翻訳し、世界へ向けて紹介した人物はいません。
これは日本人にとって、むしろ喜ばしいことではないでしょうか。
その先駆的な意味も含めて評価されるべきなのです。

村上隆≪FLOWER MATANGO≫2001-2006
氏は日本国内の美術大学のありかたを弾劾していることでも知られていますが、その講師として最も適任なのは村上氏ような気がしてなりません。
本当のアートの現場、そこでの戦い方を知っている人物が教育者になるべきです。
ヴェルサイユ宮殿で展覧会を開催できる現役の日本人アーティストは、おそらく今後20年、否、半世紀は出てこないでしょう。
第二の藤田嗣治を作らないためにも、我々はその真価をグローバルな視点で見極める必要がありそうです。
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31.2012
『ジャン・ジュネとパンク・ロック(Punk Rock)』


アンディ・ウォーホル≪Querelle≫ 1982 based on a novel by Jean Genet.
泥棒、乞食、男娼、麻薬密売人。
そんな男が高度なスキルをもった文人だとしたら、その作品を読みたくなるのは当然だろう。
彼は1910年、パリの施療産院で誕生した。
詩人コクトーは彼を「我々の時代の最も偉大な作家である」と評した。
哲学者サルトルは、六百ページにおよぶ論文『殉教と反抗』を書き、その中で彼を「聖ジュネ」と称した。
そう、これはジャン・ジュネの話しだ。
泥棒であり、乞食であり、男娼であった「聖ジュネ」
たぐい稀な才能を駆使し、詩、戯曲、小説を書きなぐった「聖ジュネ」
1910年、パリの施療産院にてジュネは誕生する。
母は名前のみ知られているが、父とその他一切は不明。
生誕から数ヵ月後に母から法的に遺棄された。
以後、成年に達するまで国家、つまり生活保護局の管理下におかれ、二日後には捨て子を受け入れることの多かった中部フランスのモルヴァン地方の一家に養育費付で委託される。
親が子に食物や衣服を与え、心地よい住居を提供することは、子供が自己保存の対象(遺伝子的に見ても)である限り、与えたものすべてに対する対価を、その存在自体で、すでに支払っているといえる。
即ち、子供は生存しているだけで、食物も衣服も住居も自ら獲得しているのだ。
しかし、天涯孤児であったジュネにとっては話が違ってくる。
与えられるものすべては、恩恵であり、対価を支払っていない以上、没収されたとしても反論の余地はない。
「自分のもの」と呼べるものは、ひとつもなかった。
それゆえ刑罰というリスクと、汚名という対価を支払い、ジュネは「泥棒」のレッテルを我が物とした。
彼が十歳のときである。
盗みの現場を目撃され「泥棒!」と呼ばれた際、ジュネは生まれてはじめて自分の存在意義を見出す。
世間から浴びせられた「泥棒」の宣告こそ、彼にとって自ら手に入れた「唯一の所有物」だったのだ。

ジャン・ジュネ(Jean Genet、1910年12月19日―1986年4月15日)
十三歳になったジュネは、パリに近いアランベール職業訓練所に入所し、翌月脱走する。
当時の所長は、報告書の中で脱走原因を「冒険小説の読みすぎによる精神的混乱、自己の価値の過大評価」としている。
感受性がひときわ強かったことを伝えるエピソードだ。
十四歳で雇い主の金を使いこんで訴えられ、更正施設、感化院への収容と脱走を繰り返す。
十八歳になり感化院から逃れる唯一の手段として、陸軍へ志願し許可される。
二十五歳で駐屯地から脱走した後、ヨーロッパ諸国を放浪する。
この間、労働の拒否と引き換えに、泥棒、乞食、男娼の生活がはじまった。
幼い頃から読書を好んでいたジュネは、やがて汚穢の全てを、汚穢であることにおいて神聖化する文学的才能を開花させた。
代表作『泥棒日記』の書き出しの数行から、その錬金術的能力を垣間見ることができる。
「徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見出す自由はあるだろう、――それで、花と徒刑囚とのあいだには緊密な関係があるのだ。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものなのである。わたしは、徒刑囚――か犯罪者――を描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう、そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花となるだろう」(傍点原文)
これを策謀と呼ばずになんと呼ぼう。
もっとも花が似つかわしくないもの、花の美しさと対極にある徒刑囚。
憎むべき犯罪者を、誰もが愛する花と結びつけてしまうことなど、策謀以外の何ものでもない。
それにしても、なんと手際のいい術だろうか。
「ラシーヌの(優麗典雅な)言語をもってする」といわれる所以である。
この点について、ジュネは次のように述べている。
「私は、スペインとわたしの乞食の(そして男娼の)生活によって汚辱の豪奢を知ったのだった。……私はこの哀れな生活に化粧を施したり、仮面をかぶせようとしたのではなく、反対に、そのありのままの汚穢の姿において確立しようとしたのであり、やがて私にはもろもろの汚穢の表徴が偉大さの表徴となった」
ジュネが制作した映画『愛の唄』(Un chant d’amour)1950年
本物の犯罪者が書いた文学には注目が集まるものだ。
しかし、それとジュネ文学の決定的な違いは、確固たるスキルと詩魂(ポエジー)にある。
独自の美意識で貫かれ、単純に文章が上手いのだ。
では彼はどのようにして、この教養をともなう技術を身につけ、感性を磨いたのか。
これもまた、盗みによって得ている。
「わたしの最初の盗みはABC読本だった、ついで第二の、さらに第三の、とつづく。わたしはこうして(盗みによって)精神的糧を得、文学の美を知ったのだ」
正真正銘の泥棒作家である。
小説『花のノートルダム』『薔薇の奇蹟』、詩集『死刑囚』は、服役中の刑務所で書かれている。
いずれも汚穢が汚穢のまま崇高化されている。
ニーチェは『悲劇の誕生』の中で「世界の存在は美的現象としてのみ是認される」と言った。
ジュネの試みは泥棒、乞食、男娼という世間から汚穢の烙印を押されたものたちを、美的現象として是認させるための策謀だったのだ。
これは一種の革命といっても過言ではない。
ジュネの策謀が成功を収めたことは、前述したコクトー、サルトルの言葉が裏打ちしている。
曰く『聖ジュネ』と。
デヴィッド・ボウイの『The Jean Genie』はジャン・ジュネをモチーフとしている。
ジュネの作品を読むとき、少なからずパンク・ロックを想起するのは私だけだろうか。
70年代のUK、国家全体にはびこる根強い階級制度。
イギリスにおいて階級は、単なる経済的分類としてだけでなく、生活のあらゆる領域において人びとを区別しうる観念である。
このような社会的背景をもってパンク・ロックは産声を上げた。
蔑視される階級に生まれついた運命に打ち勝つため、蔑視されうる要素をもって、即ち、汚れたスニーカー、破れた衣服、汚い言葉、ドラッグ、酩酊、退廃、騒音、これら自分自身の全存在を新しい価値として樹立するために「ロック」という手段を選んだ。
それはジュネが試みた価値の転倒(汚辱をそのままに美へと変貌させること)と同じであった。
被支配階級が支配階級から権力を奪うことが革命だとすれば、パンクロックは武力ではなく、音楽による革命と言える。
ブルジョアジーが糊のきいたスーツを着て「No Future」とがなり立てたところで、まったく切実さも現実感もなく、人の心を打つことはおろか、これほど文化に浸透することはなかっただろう。
夥しいフォロアーを獲得し、その価値を高めつづけている。
初期パンクの雄・セックス・ピストルズのファッション・デザインを手掛けていたヴィヴィアン・ウエストウッドは、2006年にデイム(大英帝国勲章)を授与された。
彼らの掲げた価値は、あらゆるカルチャーに影響を及ぼし、ひとつのスタイルとして樹立されたのだ。
最後は、ティエリー・ミュグレー2011/2012秋冬コレクションのビデオクリップで締めくくりたい。
ここにパンク・スピリットの具人化した姿を垣間見ることができるだろう。
彼はレディ・ガガと、その相棒であるニコラ・フォルミケッティによって発掘された。
真のラグジュアリー・ブランドのアイコンである。
まがいものは一つもない。
これを見ると、あらためて「パンク・ロック(Punk Rock)」というものを定義したい衝動に駆られる。
人間の抗いがたい運命に対する、自らの存在を賭けた、誠実な戦いであると。
PS
この記事は学生のころに書いた文章に加筆修正を入れたものです。
多分に青臭い内容ですがご容赦ください(汗)
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三島由紀夫の美学
VOGUE HOMMES JAPAN(ヴォーグ オム ジャパン)
異文化を丸呑みする「カタカナ」
27.2012
『無惨絵・無残絵 日本文化の裏地を染める鮮血』 ギリシア悲劇との類似性 月岡芳年・落合芳幾・絵金

月岡芳年『英名二十八衆句:直助権兵衛』
目を覆うばかりの惨劇です。
上半身裸の男が相手にのしかかり、右手で顔面の皮膚を剥いでいます。
その通常ではありえない角度で捩じれた身体からは、全身に漲る獰悪な力が伝わってきます。
溢れ出る鮮血。
飛び出そうな眼球。
だらりと垂れた両腕。
くっきりと残った手形の跡が、二人の烈しいやりとりを物語っています。
ダイナミックな構図。
緻密に配置された文鎮・出刃包丁・薬杵などの小物類が、事件の背景までも想像させます。
酸鼻を極めるとは、まさにこのこと。
臭いすら漂ってくるような絵です。
狂いのない線と、緊密な画面構成。
それが見るものの視線を捕らえ、この血なまぐさい殺人現場から目を離せなくさせるのです。
一枚の紙の中に、時間の流れさえも凝集させるスキル。
描いたのは、最後の浮世絵師・月岡芳年。
上記の浮世絵は、「血みどろ絵師」の異名を持つ彼が、兄弟弟子の落合芳幾とともに編んだ血の連作『英名二十八衆句』の中の一作です。
その残虐性、その様式美、ともに最高のものでしょう。
奉公元の医師・中島隆碩に、薬種の横領を告発された直助権兵衛。
権兵衛はあろうことか中島一家を惨殺し、金品を奪って逃走します。
その後変名し、米屋の下男として働いていましたが、殺害時に奪った刀を質入れしたことにより足がつき、処刑されます。
この稀代の悪党は歌舞伎などの題材にもなりました。
『英名二十八衆句』自体、当時の歌舞伎のスプラッタシーンから着想を得ています。
この手の作品は「無残絵・無惨絵」と呼ばれ、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩、芥川龍之介、など多くの文人を蠱惑しました。
三島由紀夫は月岡芳年の無惨絵について、次のように述べています。
「大蘇芳年の飽くなき血の嗜慾は、有名な「英名二十八衆句」の血みどろ絵において絶頂に達するが、ここには、幕末動乱期を生き抜いてきた人間に投影した、苛烈な時代が物語られてゐる。これらには化制度以後の末期歌舞伎劇から、あとあとまでのこった招魂社の見世物にいたる、グロッタの集中的表現があり、おのれの生理と、時代の末梢神経の昂奮との幸福な一致におののく魂が見られる。それは、頽廃芸術が、あるデモーニッシュな力を包懐するにいたる唯一の隘路である」

左:月岡芳年『稲田九蔵新助』 右:落合芳幾『團七九郎兵衛』
幕末期の無残絵は月岡芳年・月岡芳幾に焦点が当たりがちですが、もうひとり加えましょう。
絵金こと弘瀬金蔵です。
狩野派に属していた絵金は、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑により破門され、以後主流を外れた町絵師として余生を送ります。
この驚嘆すべき絵師のことは、歌舞伎評論家の故・小田考治先生から教えていただきました。
もう五・六年前ですが、絵金蔵の元副館長(なんと20代女性!)の方にも引き合わせていただき、銀座のポーランド料理店で色々とお話を伺ったのを憶えています。
絵金が定住した高知赤岡には、「絵金祭り」と呼ばれる祭りがあります。
赤岡町須留田八幡宮の神祭と夏祭りの宵にのみ、絵金の屏風絵は蔵の中から目覚め、商店街の軒先にその鮮烈な全容をあらわすのです。
ロウソクの灯りで見る絵金には、異様な魅力があるそうです。
幽霊画と同じような「縁起物」としての側面も見落とせません。
魔をもって魔を制す。
このような効用・願望も、無惨絵に込められているのです。
この点については、『江戸昭和競作無残絵英名二十八衆句』に序文ある、荒俣宏先生の次の賛辞以上に簡潔な言葉を知りません。
「これらの絵は単なる猟奇ではないのだ。猟奇の極みに到達することで俗世の浄化を寿(ことほ)ごうという、すぐれて清明なる神事(かみごと)にほかならない」

絵金・弘瀬金蔵『浮世柄比翼稲妻 二幕目返し 鈴が森』
さて、研究所というからには、ただの作品紹介だけではなく、新しい解釈、新しい見方を提示しなければなりません。
「無惨絵」は、ただの残酷な絵ではないのです。
先に結論を言ってしまえば、「無惨絵」は「ギリシア悲劇」と共通性をもつ極めて重要な芸術ジャンル」と位置付けられます。
ギリシア悲劇と言えば、あの方に登場していただくしかありません。
ドイツの哲人・フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)。
彼が28歳で書き上げた『悲劇の誕生』は、個人的にも擦り切れるほど読んだ座右の書です。
完全無欠の古代ギリシア人が、なぜ悲劇などというペシミズム(悲観主義)を容認し、なおかつ愛したのか。
『悲劇の誕生』の序文で、ニーチェは次のように述べています。(全文赤線を引くべき内容です)
「ギリシア人とペシミズムの芸術作品? これまでの人間のうち最も上出来な、最も美しい、最も羨望される、生へ誘惑する最大の力を持った人種であるギリシア人こそ――えっ? 何をいいだすのだ! 彼らギリシア人こそ、悲劇を必要としたのだって?……ペシミズムといえば、これはかならず下降の徴候ときまっているのだろうか? ペシミズムはいやでも退廃と出来損ないのしるし、疲れ果てて弱体化した本能のしるしと決めてかからねばならぬだろうか」
「強さのペシミズムというものがあるのではないか? 生存の苛酷なもの・戦慄的なもの・邪悪なもの・問題的なものに知的偏愛をいだくということが、幸福やあふれるばかりの健康、生存の充実からくる場合があるのではないか? 過剰そのものに悩むということが、ひょっとしたらあるのではなかろうか? きわめてするどい眼差しが、自分から怖ろしいものを求めるといった、当たって砕けろ式な勇敢さをそなえている場合が、ひょっとしたらあるのではなかろうか? それは自分から敵を求めるのと同じではないか」
「醜いものに対する渇望はどこからきたのかということが、問題になってこなければならぬ。ペシミズムや悲劇的神話、生存の根底にあるすべての怖ろしいもの・邪悪なもの・謎めいたもの・破壊的なもの・不吉なものの姿かたちに対して、古代ギリシア人ははげしい好意をよせているが、それはなぜかということ、――つまり、悲劇はどこから発生せざるをえなかったのか? ひょっとしたら、悲劇は快感から生まれたのではないか? 力から、みちあふれるような健康から、ありあまる充実から発生したのではなかったか?」

左:落合芳幾『佐野次郎左エ門』 右:月岡芳年『團七九郎兵衛』
無惨表現が絶頂を迎える幕末という時代、西洋ではデカダンス(退廃芸術)が台頭し、世紀末のムードがうごめいていた時代です。
シャルル・ボードレールが梅毒で死んだ1967年は、日本で王政復古の大号令が出された年。
ですが、個人的には、「無惨絵」をデカダンスとしてカテゴライズする事には反対です。
物質文明がある程度の臨界点を迎えた西洋の閉塞感と、国家の存亡を揺るがす幕末日本の動乱期は、まったく異質の状況なのです。
こう言えばわかりやすいかもしれません。
衰退というよりも、狂躁。
ダウナーというよりも、アッパー(笑)
西洋と日本は対極だ、という記事をいくつか書いてきましたが、この時期は世相さえも見事に対極にあります。
そうです。
幕末期は、国家が顛覆するほどの、一種の過剰なエネルギーに満ちていたのです。
それは、古代ギリシア人の、あの漲りわたる生命力と比肩するほどのものだったはずです。
そうであるならば、古代ギリシア人が「悲劇」を求めたように、幕末期日本人が「無惨」を求めたとしてもふしぎではありません。
ニーチェは『悲劇の誕生』の中で、ギリシア芸術を「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」に二分しました。
ディオニュソスはもともと集団的熱狂と陶酔・酩酊を伴った東方の宗教の主神です。
アテナイでのディオニュソス祭の主な内容は「悲劇の上演」でした。
さらにオルギアと呼ばれるディオニュソスのカルトの祭りは酒池肉林の狂宴で知られ、ときには動物・人間の生贄を供した血みどろの狂騒に発展しました。
「血酔い」という言葉が示唆するように、血を見ること、触れることは、一種の「快楽」であると考えられます。
民俗学では、「祭り」には日頃の生活で「抑圧」された人間性を解放する役割があるとされています。
オルギアは、それを極限まで推し進めたものと言えるでしょう。

月岡芳年『魁題百撰相:小幡助六郎信世』
人の心を歪ませるものは「抑圧」です。
「抑圧」こそが人を異常にさせるのです。
古代ギリシアのディオニュソス祭は、人間の抑圧を解放させるファクターでもありました。
侘び寂び、粋、幽玄など日本独自の繊細な美意識の背後に、「無惨絵」のような激烈な芸術がひそんでいたことを忘れてはなりません。
武士の教養ともなった「茶道」。
侘び寂びの極みである茶道の裏には、いつでも戦闘、もしくは切腹による「鮮血」があるのです。
何でもかんでも表現に規制をかける現在の風潮は文化を貧しくします。
当研究所の目的は、日本文化を豊かにし、広め、その質を高めることにあります。
いかなる規制にせよ、文化を衰退させるものには反対であることを明記しておきます。
PS
無惨絵の血脈は現代に受け継がれています。
詳細については、またいずれ。
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